ベルウッドレコード創立者、三浦光紀さんから大変貴重なお話が届きました。
1970年8月8日、日本最大級の野外コンサート「第2回中津川フォークジャンボリー」が開催されました。
このコンサートでは、60年代中頃から日本でも胎動し始め、私が最も会いたいと思ってた若くて無名なシンガー&ソングライター達が一堂に会してたので、この時代の潮流を録音し後世に遺そう思い、会社の高価な録音機材を強引に持ち出し、中津川の山中に出向きました。
そこで、高田渡さんとはっぴいえんどの生の演奏に衝撃を受け、何が何でも彼等のレコードを作りたいと勝手に思い込み、先ず高田渡さんに直接声をかけ「メジャーレコード会社からレコードを出しませんか」と切り出しました。
レコード化の条件を尋ねると「はっぴいえんどと一緒だったら」と言ったのでびっくりしました。何故なら、60年代の世界のフォークシンガー達はピート・シーガーを筆頭に電子楽器を毛嫌いしてたからです。私はそれに関しても渡さんと意見が一致したので、話はその場でまとまりました。
東京に帰り、プロデューサーとして私が最も尊敬してたURCレコードの早川義夫さんにアルバムのコンセプトワークをお願いし、選曲は私が仕事用に乗せてもらってたワゴン車で日比谷公園まで行き、車の中で渡さんが歌い、それを私と小室等さんが聞いて3人でやりました。
1971年1月16日、当時東洋一と言われたキングレコードの第1スタジオで伝説のレコーディングが始まりました。高田渡さんを中心に、細野晴臣さん、大瀧詠一さん、鈴木茂さん、松本隆さんがスタジオで車座になって「しらみの旅」のヘッドアレンジをしていた光景は、半世紀経った今も鮮明に覚えてます。
その頃、私は「ごあいさつ」(高田渡)と「風街ろまん」(はっぴいえんど)のレコーディングを同時並行でやってた関係もあり、ある時はっぴいえんどの録音現場に渡さんが顔を出し、レコーディングの合間に大瀧さん、渡さん、私の3人で欧米のレコード業界の情報交換をやってる中で、マルチチャンネルの録音機材やマルチレコーディングを体験したいので、一度皆んなでアメリカに行こうと誘い、更に私がビートルズのアップルレコードの様なアーティスト中心のレコード会社を作りたいと相談したところ、渡さんがフォークウェイズ・レコーズの話を、大瀧さんはフィルスペクターを例にサウンドの重要性を話してくれました。
後に、私はこの時の2人の話に感化され、ベルウッドレコードの方向性を決めました。
余談ですが、1970年には大瀧さんは当時フォークシィンガーの象徴的存在だった渡さんを「高田渡はロックだ」と言い、細野さんは「詩に関して高田渡の影響を受けた」と公言してました。
今思えば、高田渡とはっぴいえんどの関係は、1964年にNYのデルモニコ ホテルでディランとビートルズが歴史的出会いをして以来、ディランはサウンドで、ビートルズは詩でお互いがインスパイアされた話と奇妙に似てる様に思われます。
ベルウッドレコードは、理念としては米国の良心と言われた「フォークウェイズ・レコーズ」の「商業的価値より文化的価値」を借用し、サウンドカラーは米国西海岸の「バーバンク・サウンド」をイメージしました。
それは、レーベルにとって所属アーティスト達の「詩」がレーベルのメッセージであり、「サウンド」は文化だと思ったからです。
レーベル名のベルウッドは私の上司の鈴木文芸部部長の「鈴木」を念頭に小室等さんが「ベルウッド」と命名し、レーベルのマークは、渡さんの長兄である高田驍さんがデザインしてくれました。 この様に、高田渡さん、はっぴいえんど、小室等さんに協力してもらったベルウッドレコードは1972年にスタートします。
以来半世紀の時を経て、ベルウッドレコードは「ベルウッド・レコードが残した功績は、URCと並んで非常に重要なものだった。 もしベルウッドが存在していなかったら、いま私達が日常的に聴いている音楽はかなり違った姿になっていたと思われるほどだ」(佐藤良平)と評される様になり、さらに 週刊「金曜日」(2023年10月21日号)では「日本の音楽シーンを変えた奇跡のレーベル」として特集され、私と高田漣さんと六角精児さんが対談をしています。
高田渡さんと出会い、ベルウッドレコードを共に立ち上げ、半世紀後にそのレーベル特集で息子漣さんと対談することになるなんて物語りは、めったに無い話なので「高田渡歌まつり」を機に紹介させていただきました。
ベルウッドレコード創立者 三浦光紀
高田渡とベルウッドレコード

「Fishin' On Sunday」レコーディングより 右から、中川イサト、高田渡 、細野晴臣、ヤングギター山本隆士、三浦光紀夫妻
村瀬春樹(エッセイスト/元・ぐゎらん堂店主 拙著『あのころ、吉祥寺には「ぐゎらん堂」があった
「ワタル的ゼロ」……ってなんだ?
村瀬春樹(エッセイスト/元・ぐゎらん堂店主)
いまから30年ほど前、漫画月刊誌『ガロ』(青林堂/現・青林工藝舎)が「70年代フォークとガロ」という特集を組んだ(1993年7月号)。その中に「ぐゎらん堂の時代」というページがあって、高田渡とシバが対談している。タイトルは「僕らのフォークはルーツが違うんだよ」──。
ルーツが違う……って、どういう意味なのか?
ワタルのフォークソングもシバのブルースも、そのルーツを遡(さかのぼ)れば、「ある文化」がその源流となっていることに気がつくだろう。それは、1960年代~1970年代、世界史的な規模で同時多発した若者たちの文化と同じ根っこを持つ。
ある文化……って、なんだろう?
それは「対抗文化=カウンターカルチャー」だ。いつの時代にも、メインカルチャーとかハイカルチャーと呼ばれる「多数派文化」に抗して、若者たちが「オルタナティブ・カルチャー(もうひとつの文化)」を誕生させる。
高田渡が逝去して20年、これまでも、たくさんのトリビュート企画が開催され、日本に新たなカウンターカルチャー史のページを切り開いてきた。なかでも、私の印象に強く刻まれているのがあのニューシネマ『タカダワタル的ゼロ』である(監督:白石晃士/製作:桝井省志・アルタミラミュージック。2008年)。
〈この『タカダワタル的ゼロ』というタイトルには意表を突かれた。高田渡という音楽家の生涯をひとことであらわす惹句(キャッチフレーズ)としては絶妙の言い回しである。「ゼロ」は「零」だ。尾羽打ち枯らし、落ちぶれ果てた「零落」の「零」である。
ところが、このゼロにあの「大貧民」の名を冠せると、なぜか、罰当たりなことに、ほんのりと救われるような情景が立ち上がってくるのだ──『タカダワタル的ゼロ』。
たとえば、こんなふうに言い換えればよいのだろうか?
ゼロはプラスでもマイナスでもない。±(プラマイ・ゼロ)。
ゼロはないことを意味しない。存在(ある)と非在(ない)とのシーソーゲーム。
ゼロはあらゆるモノサシの原点であり、モノゴトの出発点だ。
人は裸一貫で生まれ、やがて灰となり、土に還る。
人はゼロから出発し、ふたたびゼロに帰す。
ゼロは、「鉛色の希望」に背を向けた。
ゼロは、「バラ色の絶望」を唄い、遊ぶ。
それは、どんなゼロ? 『タカダワタル的ゼロ』…
拙著『あのころ、吉祥寺には「ぐゎらん堂」があった/
─1970年代のカウンターカルチャー、その痛快な逆説』より
人の世の真実に目を背(そむ)ければ、そりゃ、なにがしかの希望は生まれるかもしれない。けど、「灰色の希望」や「鉛色の希望」のワナにハマってはなるまい。人生を直視する「バラ色の絶望」が、いつだって、人を元気にするのだ。
今回のトリビュート企画「高田渡 歌まつり」のすごいところは、没後20年、この「Mr.ゼロ」の歌と彼のスピリットが時代を超えて歌い継がれようとしていることだ。若い世代の胸にも共鳴りを起こすことだろう。
あの時代が蘇(よみがえ)り、新しいタカダワタル的時空間が見えてくる。
武蔵野公会堂で、お会いしましょう!




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