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お茶の水でライブを終えた僕ら高田渡とヒルトップ ストリングス バンドは中央線で吉祥寺に向かっていた 車中で急に高田さんがギターケースからギターを出して歌い出した 僕らも負けじと楽器を取り出し演奏に加わった 乗り合わせた人達は始めは変な顔をしていたが だんだん笑顔に変わり 電車の中の演奏会は吉祥寺まで楽しく続いた とてもいい時代の とてもいい思い出を高田渡は僕にくれた。        -大庭珍太-

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​タンポポ団ツアー大阪、撮影:若林澄夫

お酒を飲んでいる渡さん。酔っ払ってステージで歌ったり喋ったりしている渡さん。みんなの中に強く残っている高田渡さんのイメージ。でもぼくはお酒を飲み出す前のしらふの渡さんを思い出す。会って、コーヒーを飲んで、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、添田唖蝉坊の話を一緒にいつまでもしていた。二人とも十代だった。まだ自分で歌詞も書いていた。渡さんの原点。それがやがて日本や世界の詩を積極的に歌うことへと、どう変わっていったのか、あるいは変わらなかったのか。亡くなって20年になる今、もう一度高田渡の歌の世界について考えたい。  -中川五郎-

左から中川イサト、高田渡、岡林信康、中川五郎 1969

高田渡&ヒルトップ・ストリングス・バンドを結成した頃渡さんとヒルトップのレコードジャケットのイラストを描いていただいた小島武さんと3人でパリに行ったことがありました。渡さんは海外でも変わらずちゃんとお酒は飲むんだなと思ったものです。滞在中渡さんは小島さんとお酒を飲みに行き、僕はジプシーのギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトのレコードを探しに行くのでした。リュックいっぱいにジャンゴのレコードを買ったこともあり僕がジャンゴ好きだとわかったらしくDVD「タカダワタル的ゼロ」のライブではバンジョーではなくジャンゴと同じモデルのギターで声をかけてくれたのは嬉しい思い出の一つとなりました。実は渡さんもジャンゴ好きなのでした。-キヨシ小林-

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​髙田渡、キヨシ小林

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高田渡氏が吉祥寺界隈に棲息していたころ、井の頭線久我山駅の近くから我が家に電話がかかってきて、
渡は電話が済んだ時にはもう居酒屋にいる。大き目めのコップに注がれた酒の三分の一は無くなり、
残り三分の二はすぐに二杯目のコップ酒になり、、やがて三杯目に口がつく頃には自然の成り行きで、
そこから東京方面のフォークの頑張りが少ないと小言が始まる。小言が終わるころには渡氏の正体は無い(笑)
渡さん、いずれそちらでコップ酒といきましょう。 -小室等-

『想い出のひとこま』              

あるとき、名古屋の近郊で渡さんとボクと のライブがあった。前日、渡さんは我が家に泊まり、一緒に呑んでいる時に、ボクは、「『風』っていう歌、渡さんライブであんまり歌わないですよね?」と訊くと・・・、「あんな寂しい歌、客が喜ばんだろ」と いう応えだった。それならと、 「ボク、あの歌好きなんで、渡さんがあま り歌わないんだったら、歌わせてもらって良いですか・・・?」と言うと、すぐに、 「あぁ、いいよ」と応えてくれた。  

そして、翌日のライブで、渡さんは、 「いとう君が好きだっていうんで・・・」と、言い訳みたいに言いながら、『風』を歌って くれた。 それ以来、『風』という歌は、ボクの大切 なレパートリーとなった。     -いとうたかお-

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​笑顔のお2人、いとうたかおさんと

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「なぎら君、僕が亡くなった日を忘れないでくれよな」と言わんばかりの死であった。高田渡が亡くなった2005年の4月16日、その日はあたしの53回目の誕生日であった。

 横浜でのバースディライブの中、客席に訃報を伝えたのだが、信じてもらえなかった。やがてそれが事実だと分かると、客席に悲痛な空気が流れた。

重い空気の中、あたしは高田渡の歌を歌った。

 そうか、亡くなって20年かい。忘れてはいないよ、渡ちゃん。あたしは20年間、誕生日のたびにあなたを思い出しているよ。   

-なぎら健壱-

​なぎら氏もメンバーだった武蔵野タンポポ団

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お酒さん こと 渡さんへ 約束、ずいぶん遅くなっちゃったけれど やっと、ちょっぴりね、うたえるようになったかな。

-よしだよしこ-

「欲の在りどころ」    

 

 高田渡というひとは存外シャイな人間でした。父と親交のあった方ならば――お酒を呑んでいない父というべきか――周知のことだと思います。同時に自らの芸事に関しては勝ち気とはいわないまでも強い自信を持っていました。かつて筑紫哲也さんはそれを〈欲の在りどころが違う〉と表現していた。自分の〈うた〉を信じ、それを外的な要因から変えることを頑に拒んだ生き様でした。つまりこのようにステージで祝われること にはどこか照れながらも、誇らしく思っているに違いないということです。  - 高田漣-

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​お父さんを差し置いて一升瓶のギターで嬉しいね

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白糠の会場に行ったら渡さんはもうきていて静かに座っていた。函館だかどこかのライブの後だったから疲れていたのかも知れない。 ライブはいつものように一部は渡さんのsolo、二部は二人でやる予定でそう進んだ。何曲目だったか、会場入口の扉あたりからtenor saxの咆哮が鳴り響いた。片山広明だ! 北海道を旅してるとは聞いていたけれど、ここに現れたか。みんなびっくり、渡さんも苦笑いして見てる。それで何曲かいっしょに演ったんだっけ。 その日、渡さんは打ち上げまでいた。翌朝、ホテルのロビーに降りて行ったら、渡さんが救急車で運ばれたという。信じられない。病院に会いに行った。渡さんは横になっていて、気がつくと身体を起こそうとしたけれど力が入らなかった。なにか話そうとしたけれど声にならない。元気になるにはもう少し時間がかかりそうだと思った。     -渋谷毅-

ガンさんの電話で、渡の死を知った夜 布団を頭からかぶりバカヤロウ、バカヤロウ!!と叫びながら 号泣したあの日から、もう何年経っただろうか。 そして高田渡を演じたまま、逝ってしまった渡。 高田渡をやめたって良かったのに 今でも、それが悔やまれてならないよ。 渡は飯より酒と言わんばかりに、いつもステージには 客の差し入れた酒瓶がずらり。 だけど、無理しなくたって良かったんだ。 俺と二人ツアー中の朝、渡の方から飯食って行こうと言うので 二人して立ち食い蕎麦を食ったっけ。 小銭が無いと言うので、俺が立て替えておいた金を まだ返してもらってないのに、勝手に逝ってしまった渡。 俺の事を親友とも、戦友とも言っていた渡。 そしてこんな歳になって両親や沢山の友人 知り合い達が、あの世に逝ってしまったけどね。 俺が涙したのは、たった一度 渡が逝った、あの時だけだった。 -シバ-

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シバと、​撮影:若林澄夫

   高田渡について

*冤罪を勝ち取った今は亡き免田栄さんが車椅子に乗って高田渡の楽屋を訪問し、獄中で渡さんの歌を聴き非常に励まされたと、わざわざ感謝を伝えに来たらしい。

何の歌だったのだろうか。

*チューニングメーターを持っているのにも関わらず、高田渡はステージ直前には音叉を使ったという。

*拘置所の面会室で永山則夫さんに会い「ミミズの歌」の使用許可を得ようとした時に一悶着あったらしい。しかし、相手は死刑囚だが御構い構い無しの渡さん。

*フィナーレでよく歌われた「遠い世界に」だが渡さんが歌ったところを見たことがない。

*高田渡が築地でバイトをしていたというのは本当だったのだろうか。

*イサトさんの眼を盗んでは酒を飲んでいた渡さん、イサトさんに見つかっては怒られていた。

*あれは何年前の何というCMだったろうか、渡さんの歌う「値上げ」が流れた。私にとっては驚天動地、青天の霹靂。CMは二週間ぐらいで打ち切りになったんじゃなかろうか。

まだまだ高田渡の話は尽きないが,そして真贋のほどはわからない。 -斉藤哲夫-

高田渡さんの歌を初めて聞いたのは高校生の時で、当時好きだったバンドが紹介していた「タカダワタル的」のDVDでした。みた瞬間から渡さんの歌と人柄が大好きになってしまい、既に亡くなられていた渡さんの足跡を追いかける毎日になりました。バンドをやっていたのに1人で歌い始めたのもこの頃でした。

2008年に武蔵野公会堂で行われた「高田渡生誕祭59」には行くことができ、その年の「祝春一番」にも初めて行き、たくさんの出会いがありました。

こうして武蔵野公会堂の「高田渡歌まつり」に出演できることは、自分の中の高田渡との物語がクライマックスに入ってしまったように感じますが、これからも渡さんの歌を愛し続けることには変わりありません。

何を言いたいのかというと…出演できて、とても嬉しい!ということです。 -松井文-

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『削ぎ落としていて無駄がない、というのが渡さんの歌の魅力だと思っています。余白が多いと言い換えることもできると思います。でもそれは骨太であってこそ成り立つものであって、残された歌はその後たくさんの人に歌われ磨かれてきて、まるで古典落語のようにそこにあります。

そんな骨太な歌を自分も歌っていきたいと思っている次第であります。』​                               -安宅浩司-

春一番からの帰りだったか、新幹線に自由席切符で乗車してのち、東京まで食堂車にずっと居座り、渡さんと呑みながら帰ってきたことがありました。ご馳走してくれました。例えばそんな時に、渡さんから言われたことは、今でも耳元に残っていて、忘れることはありません。「タクシーに相乗りする際の楽器の入れ方」とか「ビールと一緒に駅弁を食べるときの順番」とか、ちょっとしたヒントを教えてもらったことがあった一方で、とても大切なことをフッと言ってくれました。厳しく叱られたこともありました。今も渡さんから"ちゃんとしろ"と見守られているというか、懐かしい感情など全くなく、リアルな言葉として耳元で響いています。  -大江田信-

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​リングリンクスと春一番のステージ

渡さんを初めて肉眼で見たのは、私がまだ歌い始めて間もない頃、吉祥寺のマンダラ2でのライブの最中でした。 いろんな先輩方から聞いていた『高田渡』さん、店の一番奥で暗く浮かび上がる彫りの深い、少し不機嫌そうにも見えるその顔を私は歌いながら「あの人、高田渡さんかな?」と思ったのが初めての記憶です。 そのライブに一緒に出演していたロケット・マツさんに誘ってもらい翌日の下北沢ラ・カーニャの渡さんのライブへ。初めて観た高田渡ライブに心底驚きました。歌、声、詩、曲全てに圧倒され、落語のような話に笑い転げました。その日から始まった渡さんの吉祥寺飲み屋巡回のお供をつとめる中、ある時、吉祥寺の本屋さんで渡さんが歌っている外国詩の本を手に「誰が訳しているかが重要なんだよ」と、 この言葉をなぜか時折思い出します。最初に渡さんに教えてもらったことだったからかもしれません。 あの頃から今も私は高田渡さんの強い影響を受けて歌っているのではないかと思います。   -松永希-

私が自分で歌をつくる前のこと。 学生時代、鈴木慶一さんに高田渡さんのCDをいただき、その存在を知った。 それまで洋楽を歌っていたのだけれど、日本語の歌がすごくいい、と初めて思った。胸に耳に残るものがあった。 卒業後、上京をして、高田渡さんに会って学ぼうと勝手に思っていた、その春、渡さんは亡くなった。 来たばかりの東京を歩き、ここにいたのかな、と想像をして泣いた。 彼が見ていたものを知りたくて吉祥寺の「いせや」でバイトをはじめた。 しかし煙で喉を痛めて、すぐにやめた。 何をしにきたんだろう、落ち込んでいた日々に、自分の歌が生まれはじめた。 つぎの春、吉祥寺で、渡辺勝さんに出会う。 そしてふたりで「仕事さがし」を歌ったのだった。 -松倉如子-

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​撮影:沢田節子

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「二十一歳の頃、まだピアノがよく弾けないのに高田さんに声をかけていただいて宮古島のフェスティバルに連れて行ってもらいました。ちゃんとしたステージで演奏してお金をもらったのはこの時が初めてです。その後日本各地いろいろな所へ連れて行ってもらいました。日本大学の学園祭だったと思いますが、演奏前に模擬店で高田さんと日本酒を飲んでから本番が始まりました。高田さんのMCを聞きながらピアノのところで寝てしまったのですが、「永畑くんそろそろ起きてくださいよ」と言われました。高田さんをさしおいてステージで寝たという自慢話です。」   -ロケット・マツ-

大町スキー場でソリに乗る渡さん

 最初にお会いしたのは…高校生の頃、後に映画監督になる小林政広と林亭の相方大江田くんと、お住いの三鷹のアパートへお邪魔しました。 お茶を入れて下さり、バウムクーヘン?も出してくれ、いろいろな話しをしてくれました…そして35年ほど経ち… 最後に会ったのは白糠で倒れる前月「タカダワタル的ゼロ」のトラック・ダウンに立ち会い、遅れて来た高田さんが酔っていろいろな理不尽な事…イチャモンの様な事…を言うので「分かったから、少し黙ってて!」と不穏な雰囲気に…そのままの感じで終了後、挨拶もそこそこに別れたのでした。 そして4月になり突然の知らせが…翌朝釧路へ飛びました。

      -佐久間順平-

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​一つの寿司桶で仲睦まじいお二人

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『まるでいつもの夜みたいに』より

諸先輩と比べると比較的付き合いが浅く、いち大ファンだった私。 何度かイベントで顔合わせたり、少しセッションする機会がありましたが、いつ頃から僕を認識していただいてたのやら? ただし、回を重ねる毎に笑顔で会話できるようになったり、酔っ払ってチクッとイヤミ言われたりしてたのは事実。 亡くなった後に、数名の方から「珍しく、渡ちゃんはてっちゃんのギタープレイを褒めてたんだよ〜」と聞かされて天にも昇る気持ちでした。 かなり先になりますが、僕が天に昇ったら、ホントに褒めてたのか事実確認したいと思います。 「そんな事言ったおぼえはない!」と断言した後にニヤッと笑ってくれる事を期待します。

​    -藤縄てつや-​

渡氏との思い出は至るところにある。最初は1970年ぐらいの大阪の「ディラン」で、ぼくに「大塚さん」と呼んでくれたことにまず驚き、その後は君付けになったのだが、それは誰に対しても同じだったように思う。 葉山のぼくの家に来た時は、何と料理まで作ってくれた。又、彼のアパートに泊めて貰った時は、「いつも同じ服を着てると思っているだろう」と箪笥を開け、「ほら」と見せられたのは同じ柄のシャツが何枚も入っていた。 奥様の友恵さんの里である鹿児島県鹿屋市の友達の家で会った時は、愛犬が交通事故で亡くなったばかりで、その愛犬の話をしながらおいおいと号泣する彼を初めて見た。別宅である霧島に誘われた時は、結局行けなかったのだが、「それは残念だね、ここから虹の根元が出て、それが見れるのになぁ」と嘯かれた。 ぼくの知ってる彼は、いつも茶目っ気があり可愛い人であった。 仲良くしてくれて、ありがとうございました。         -大塚まさじ‐

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糸川燿史さんの写真集「グッバイザディランII」

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​GWANさんと渡さん  

渡はホント「特別な人」だった。1970年に初めて歌を聴いた時から驚いて、渡が三鷹に越してきてからは、会うたび面白いので仕事の帰りは吉祥寺に寄り道した。いせやとか本屋で待ち合わせして一杯。で帰ろうとすると、もう少しと誘われて渡んちで一杯。と渡は僕の妻に電話して「もう終電ないのでガンさん今夜は泊まってもらいます」なんて、まだ9時前なのに。妻も渡が好きなので笑って「ハイハイ」。そして泊まった翌日、渡は必ず僕に何か土産を持たせようとするの。「いいよいいよ」と断ってるのに「これ、なかなかうまいのよ」なんて太〜いチクワを持たされたこともあったなあ。 ‥‥あれ?渡との思い出はいくらでもあるのに、ひとつ思い出しただけで文字数いっぱいになってしまった。しかも一杯やりたくなったので、渡に献杯から始めますね。ではまた! 

​    -佐藤GWAN博-

いつのまにか高田さんは吉祥寺で一番の若手になってしまった。

だけど尊敬する先輩です。

​       ‐今井忍‐

きのうの夢か? 朝帰りの駅前通りで未だフラフラしながら歩いてたら向こうにいっぱい知り合いがおる! そんなかに渡氏がおった。エエッ? 何してまんね? ハハハ、俺らはもう死ぬこたあ無い、朝メシ前に一杯やってるんだよってな事いつてたな! ふむふむ、 僕は未だこっちでそんな事してたいな!

     ‐ 村上律‐

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​まるでいつもの夜みたいに

きのうの夢か? 朝帰りの駅前通りで未だフラフラしながら歩いてたら向こうにいっぱい知り合いがおる! そんなかに渡氏がおった。エエッ? 何してまんね? ハハハ、俺らはもう死ぬこたあ無い、朝メシ前に一杯やってるんだよってな事いつてたな! ふむふむ、 僕は未だこっちでそんな事してたいな!

     ‐ 村上律‐

僕が高田渡を好きなのはT.Tさんのように歌が押し付けがましくないからかな。高田渡の歌は落語家のように枕があって歌い出す。歌詞はは少なくその隙間に彼の魂が脈打っている。フォークシンガーではない。そんな事どうでも良いのだ。さて今宵の祭りはどうなの?奴さん悪さするかな?ヒヒヒ。    ‐松田幸一‐

-高田渡歌まつり実行委員会-

 

ディレクター:佐久間順平  /コーディネーター:中川五郎  /  舞台監督:玉井まさじ  /  舞台助手:山本ひろみ

                             デザイン:沢田節子  /  WEBサイト制作:矢島恵 

 

              

  絵と描き文字:スズキコージ  / 音  響:小俣佳久 /   照明:田中めぐみ

お問い合わせ  takadawataru20@gmail.com

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